Mちゃんの、あの意味不明な行動は胸の奥に小さな棘のように残っていた。
けれど翌日、無事に名探偵と会えたことで、その棘はたちまち霞んでいった。
もちろん、昨日の「当欠」のことを持ち出すような無粋はしない。
人には人の事情がある──それを理解できる男でありたい。
ただ、雑多な待合室でふと口をついて出た。
「そういえば、コールって何回鳴るんですか?」
黒服は振り返りざまに薄く笑い、「2回なったら帰る準備をしてください」と囁いた。
その笑みに妙な含みを感じながらも、「分かりました」と応じると、彼はニヤッと笑って奥へ消えていった。
その日のプレイは、昨日の言葉が頭をよぎり、どこか急いていた。
時間を気にしながらの甘美なやり取り──それもまたスリルを生む。
名探偵との踊り場でのキスも、つい駆け足になった。
「もう、急いでるの?ごっつんしただけやん」
彼女の小悪魔めいた笑い声が追いかけてくる。
けれど俺は、余韻を残すよりも、不愉快な幕切れを避ける方を選んだ。
走ってでも帰りたい。そんな夜もある。
階段を降りきると、満面の笑みを浮かべた黒服と鉢合わせた。
「大丈夫ですか?」
少し疲れの残る俺に、思いがけない労いの声がかけられる。
昨日の冷たさを思えば、別人のような柔らかさだった。
つい俺は笑みを返し、口にしていた。
「明日帰るんでね、最後に張り切り過ぎました。楽しい夜をありがとう」
──まるで恋人に別れを告げるかのように。
* * *
ここで話は少し横道にそれる。
俺には、かつて通い詰めた奇妙な店があった。
そこは客がコスチュームを選び、キャストがそれに身を包む──いわば「着せ替えの館」。
お気に入りのはるちゃんは「陸上」。
お迎えのとき、彼女は恥じらいを隠すように陸上ユニフォームの下に下着を仕込み、さらにジャケットを羽織って現れた。
俺はわざと意地悪に囁く。
「この店って、頭のてっぺんから爪先まで、着こなすのがルールじゃなかったっけ?」
次の来店から、彼女は何も羽織らずに現れた。
頬を真っ赤にし、震える肩越しに伝わる熱が、俺の愉悦をさらに煽った。
「なに?お出迎えが恥ずかしいって?」
問いかけると、彼女は視線を逸らし、小さな声で懇願する。
「メイドさん……メイドさんでお願いします」
「分かった。じゃあ俺がご主人様だ。分かったな?」
あの夜の支配と服従の甘美な関係は、今でも鮮烈に蘇る。
しかもその店は、客にまでコスプレをさせるという奇抜な趣向を持っていた。
湯上がりの廊下で、スーパーヒーローと幾度もすれ違うたび、笑いを堪えるのに必死だった。
だが──心の奥で妙にざわつき、俺自身も試してみたくなった。
その機会は突然やってきた。気まぐれな店長の告知。
「今日は13日の金曜日。ジェイソンコスで入店したら千円割引!」
さすがに修羅の国でチェーンソーを振り回すわけにはいかなかったが……
はるちゃんの部屋で、悲鳴を引き出すことぐらいはできた。
背徳と遊戯が入り混じる、あの緊張と興奮。
しかもその日、隣の部屋には──のちに深く絡むことになる、はづきちゃんがいた。
偶然か、運命か。思えばあれが、次の物語の伏線だったのかもしれない。
* * *
そして現在の店へ話を戻す。
この店にもコスプレオプションは存在する。
だが、どのような衣装が揃っているのかはまだ分からない。
スポーツ、メイド、働くオネーサン、そしてランジェリー系まで──想像だけが膨らんでいく。
名探偵と遊んだばかりだというのに、なぜか脳裏に浮かぶのはMちゃんの姿だった。
彼女がメイド服を纏い、頬を赤らめながらも小悪魔の笑みを浮かべる……その幻に心がざわつく。
現実と妄想のあわいに揺れながら、俺はひとり岐路に立っていた。
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